
連続トラブルの中で、宿は止まらない
長野県、標高1,365メートル。北白樺高原の奥、冬の足音が響く山あいに、カナリアンホテルはある。
2025年の年末。世間が年の瀬に浮かれ始めた頃、ここでは静かに、気温が下がり続けていた。
夜明け前の外気温は、マイナス13度を下回っていた。
除雪車の音もまだ届かない時間。館内の灯りも消え、誰も動いていない。
そのとき、館の裏で一つの音がした。
キン、と、何かが弾けるような乾いた音だった。
異変
最初に止まったのは除雪機だった。
12月28日。降り積もった雪を今夜のお客様にご不便をかけまいと、いつものように始動させようとしたエンジンが、何度やってもコイルスターターは動かなかった。
業者に相談したものの、新品は70万円以上、中古でも30万円以上、突発的な出費にしては高すぎる。ジモティで見つけた4万円の中古品を急遽購入到着は1月11日だった。
それまでの2週間は、スコップ一本で駐車場と通路を確保することになった。
ライザップに無料で通ったと思い、黙々と雪をかいた。
降った雪は、翌日に融けなかった。その翌日はまた雪だった。
そして年が明けた1月24日。強力な暖房器具、ブルーヒーターから燃料れが発生。
35年使い続けられていたものだった。その日をもって、静かに息を引き取った。
新品価格は5万8千円。到着は早くて数日後となった。
そしてこれが連鎖トラブルを招いた。それでも宿は営業中である。
館内の気温は、日中でも氷点下だった。冷えきった床に足をつくと、じんわりと痛みを感じるほどだった。
交感神経がおかしくなる。手足が遅れ、凍傷の症状が出る。
これではまるで遭難だ。
対応
1月27日。厨房の蛇口から、何の音もしなくなった。給水管が凍った。
この日は最低気温マイナス15度。強力な館内暖房が故障したおかげで、館内もマイナス度だ。
建物の床下に潜る。ライト一つで配管の確認をする。凍結防止のヒーターは動作しているようだ。
夜。懐中電灯を咥え、裏手の雪を踏みしめて外の止水栓を確認する。膝までの雪の深さで長靴が埋まる。
スコップで掘り起こし、ようやく辿り着いたバルブに、濡れた手で触れる。
ゆっくりと閉じた。
厨房の排水トラップが詰まり、水が戻ってくる。湯を流し、しばらく放置する。
それでも通らない。
バールを持ってくる。
ツリガネをゆっくりとにこじ開ける。パキン、という音とともに、外れ排水が始まった。
ようやく1つ問題が解決した。
そして翌日。
翌日の仕込みをしていると、食洗機の配管から激しい水漏れが始まった。
厨房機器メーカーも連日の寒波で対応に追われており、修理は混み合っている。
使えないまま1週間。修理費は3万円。
暫くは、すべての皿を手で洗わなくてはならない。
山場
その夜。
宿泊客の夕食対応を終え、全ての皿を洗い終えた時点で、深夜1時を回っていた。
気づけば、昼食も摂っていなかった。
ふらりと厨房の冷蔵庫を開ける。
残っていたのは、翌朝の朝食用に仕込んだコーンポタージュの搾りかす。
ブロッコリーの芯。そして、特売品の豚肉だ。
フライパンに火を入れる。松阪牛の牛脂でブロッコリーと豚肉を炒めた。
客に出すコース料理では、肉の塊から落とされた牛脂が大量に出る。
それを炒め油にした。
コーンポタージュの搾りかすはパスタソースに。
皿に盛った料理を前に、誰の評価もない。
食べるのはひとり。音楽もない。
静かに目を閉じ味わうと、それは松阪牛の味がした。
夜は静かに続いていた。
収束
翌朝。水は戻っていなかった。
だが、チェックインの予定はある。
料理は作る。
掃除はする。
部屋の暖房も、限られたストーブで回していく。
今週は私一人しかいない。そして、宿は止められない。
ただ、ひたすらにトラブル対応だけをする。
極寒の室内で。
エピローグ
これらは、2026年の1月に記録された出来事である。
すべてが解決したわけではない。
新たなトラブルも起こるかもしれない。
だが、館は動いている。
人が泊まり、料理が出され、片付けられ、ベッドが整えられる。
藍井瑛は今日もいる。
その宿の裏手で、客室の給湯バルブを回しながら。
雪はまた、降り始めていた。